このページは1997年春、筆者が博士号を取得した際に、そのプロセスを忘れないように、と記録したものである。
日本には「論文博士」という特殊な制度があり、大学に通学せずして博士号を得ることが可能である。 しかし現実には、大学に通学せずに博士号取得のノウハウを得るのは簡単ではない。 そこでこのページは、論文博士を目指しながら企業などに勤務する方に、 なんらかの参考になれば幸いと思ってウェブ上に公開した。
筆者自身も内容を忘れているくらい古い情報であり、 いまさら公開を続けていても読者の参考になるかどうか、怪しいところではある。 しかし私の後に博士号を取得した、非常に多くの人から、 「読ませていただきました、参考になりました」 という声をいただいている経緯から、筆者の転職後もページの公開を続ける所存である。
もともと、このページは、博士論文の内容を紹介するページの付録だったはずである。 付録だけ公開を続けているというのも奇妙であるが、細かい点は気にしないで頂きたい。
早稲田大学理工学部電子通信学科 (or 情報学科) 以外の方には、 あまり参考にならないかもしれないが、御了承を。
なお蛇足ながら、
92年3月
理工学研究科修士課程を修了。
就職時に指導教授から「30歳になったらドクターをあげられるように頑張れ」
と励まされた。
95年11月
指導教授に会い、それまでの業績一覧を見せ、
博士論文を書いていいかどうか打診した。
ひょっとして「30歳になるまでもう一年待て」などと言われるかと
思ったら、意外にすんなりOKをもらえた。
96年4月
大学を訪問する用事があったので、論文のタイトル、および目次をつくり、
指導教授に見せるとともに、研究成果の画像例を見せてその内容を説明した。
こんな早い時期に目次を見せる人は滅多にいない。
特に課程博士の場合は、夏休みに文章を量産するのならば、目次の提示は
6月中くらいでも十分である。
著者の場合、論文の内容が2〜4章と5〜7章で少し離れていたので、
両方を論文に載せるか片方に絞るか迷っていた。
(この件に関しては、共同研究者の意見もわかれていた。)
そのため、指導教授に早めに意見を聞くために、この時期に目次を提示した。
96年7月15日ごろ
夏休み期間中は指導教授とのスケジュール調整が難しくなるので、
前期のうちに書きかけの論文を指導教授に見せに行き、
論文の全体的な印象を聞かせてもらった。
たまたま指導教授がスケジュールを空けてくれたせいか、
数時間にわたる長い議論になった。その後のプロセスを通しても、
この日の議論がもっとも白熱していたように思う。
この時点で論文は約90ページ。
96年8月10日ごろ
指導教授の意見を参照ff6699し、また継続中の研究内容を論文に加味しながら、
論文を一部書き直し、指導教授の自宅に郵送するとともに、
一部の共同研究者に論文のコピーを渡した。
この時点で論文は約130ページ(だと思う)。
96年8月20日ごろ
大学院事務所からもらった、提出書類の用紙のうち、
履歴書・業績一覧・概要書
の三書類をこの時期に作成した。
ただし、これらの三書類は
この時期に用紙に印刷するものではない
ので、慌てないでいただきたい。
さらに、論文の概要を説明する15ページ程度の発表資料を作成した。
この資料は、その後の過程で3回も使い回される重要なものである。
96年9月10日ごろ
業績の別刷一式
をバインダに閉じた。
私の場合、回覧用3部と、主査・副査合計5人への配布とで、
合計8部
のバインダが必要であり、非常に面倒な作業であった。
ちょうどこの時期に研修生が私のところに来ていたので、
個人的な仕事を押しつけることに引け目を感じながらも、
ついバインダ作成作業を学生にお願いしてしまった。
96年9月15日ごろ
8月に郵送した論文と、履歴書・業績一覧・概要書の三書類、
および発表資料を、指導教授に見せた。
指導教授からOKが出たので、論文・履歴書・業績一覧・概要書、発表資料を、
必要枚数だけコピーして指導教授にあずけた。
96年9月19日 教室会議
(学科の教授の定例会議) にて、博士論文審査の提案が
承認された。
また、予備公聴会 (学科の教授の前でのプレゼン) の日程が決まった。
教室会議 (学科の教授の定例会議) にて博士論文審査の提案をしてもらうためには、
以下のものを用意する必要がある。
96年10月10日ごろ
継続中の研究内容を論文に書き加える。
発表資料 (OHP約50枚) を作成する。
OHPのためにつくった図表などを論文に加えたくなったり、
OHP用に考えた簡潔な単語を論文にも使いたくなり、
徹夜であちこち論文を修正する。
この時点で論文は約160ページ。
96年10月17日 予備公聴会
(学科の教授全員の前でのプレゼン)。
20分程度の発表と10分程度の質疑。
当然ながらOHPを50枚も使うわけがなかった。
たまたま私の発表には難しい質疑がなく、すんなり承認される。
この日に用意したものは下記の通り。
96年10月23日 大学院事務所に書類 (履歴書・業績一覧・概要書の三書類を用紙に印刷したもの)を提出。 同じ日に、指導教授名義で提出する書類についても、内容を相談の上提出。 この書類によって副査の先生が正式に決まり、指導教授と一緒に挨拶に行く。 この日用意したものは下記の通り。
96年11月10日
工研委員会で、博士論文の受理が決定される。
96年11月15日ごろ
課程外博士の審査振込用紙が郵送される。
早稲田大学理工学研究科の場合は80,000円。
96年12月10日ごろ
指導教授に電話をし、公聴会の日程を決めて下さるようお願いする。
私の場合、この電話が遅過ぎたように思っている。
公聴会以降に例えば、論文の修正、製本のトラブル、急な出張などがあると、
審査分科会や工研委員会への提出が1カ月遅れてしまう可能性があり、
学位授与のスケジュールに支障をきたす可能性があるからである。
スケジュールに余裕を見るためには、
公聴会をできれば年内、遅くとも1月前半にお願いする
ことが望ましい。
97年1月20日
主査・副査に、念のためもう一度挨拶に行く。
論文の内容については特に注文なし。
97年1月29日
論文の一部をもう一度書き直し、公聴会資料等の準備を完了。
最終的に論文は193ページ(参考文献や業績一覧を含む)。
97年1月30日午前 公聴会
(主査・副査・その他一般に公開されたプレゼン)。
アニメーション表示を見せるために持参した PC が三穴コンセントで、
発表会場に三穴コンセントがないので、直前にアダプター探しに走るハメに。
私の場合は発表30分、質疑30分で、これまた特に難しい質疑はなく、
無修正で論文を提出することを許可される。
この日用意したものは下記の通り。
97年1月30日午後
課程外博士の試問。私の場合、英語と専門3科目の筆記試験があった。
好運にも(?)論文の無修正製本を許可されたので、
筆記試験の時間中に論文をコピー。
研究室のコピー機で 5000枚くらいのコピーをしたので、
80,000円の審査料のモトがとれたような気がした。
この時点で私が不注意であったために、後で面倒な思いをした点があるので、
書き添えておく。
まず私の場合、公聴会の時にミエを張って、
査読中の論文も業績リストに加えていたのだが、
事務所に提出する論文の業績一覧には、査読中の論文を書いてはいけない
ので、製本前に消すべきである。
また、表紙には工研委員会の年月 (私の場合1997年3月) を記入するのだが、
あやまって審査分科会の年月を書いてしまった
ので、製本後に修正するハメになってしまった。
97年2月1日
論文の製本を業者に出す。私は理工社早稲田店に行った。
背表紙の縦書きがうまくできなくて悩んだが、
縦書きは業者がサービスでつくってくれたので安心した。
製本費用は以下の通り。
ちなみに、cost は総費用、m は黒表紙製本の冊数、
n は簡易製本の冊数、page はページ数、
(int)(page / 60 + 1)はページ数を60で割った端数を切り上げたことを示す。
簡易製本については思わぬ人から「欲しい」と言われることがあるので、
すぐに追加製本ができるように原稿を保存するか、多めに製本することが望ましい。
私の場合、審査分科会に出席した教授から、合計3冊のリクエストがあった。
97年2月18日 製本を業者から引きとり、大学に持参する。 また、指導教授が提出する審査報告書の印刷を頼まれたので、その印刷をする。 ここで、審査報告書の最後に列挙する 主査・副査の名前、学位(工学、理学、or..)、および学位を取得した大学名 を、正確に記述する必要がある。 これらの内容は大学院事務所で念のため調べることが望ましい。 この日用意したものは下記の通り。
97年2月20日 審査分科会
もちろん本人が出席するわけではないが、一応大学に待機。
満場一致で合格。
あまり不合格票が多いと、合格になってもちょっと気まずいかもしれないらしい。
合格を確認すると、その日のうちに、
論文や書類等 (工研委員会の1週間前までに提出する)一式を大学院事務所に提出した。
この日に事務所に提出したものは下記の通り。