まえがき。

本文書はもともと、お茶の水女子大学大学院・理学専攻情報科学コース伊藤研究室における修士論文作成上の注意点をまとめたものです。 しかし内容的には、他研究室、他専攻、他大学における修士論文作成のノウハウと共通する部分もあると考えられるため、ここに公開することにしました。
必ずしも全ての内容が全ての修士論文に該当するとは限りません。他研究室、他専攻、他大学から本ページを読まれる方は、ご自分の所属での修士論文の考え方を尊重してください。

論文の書き方については、他にも多くの研究者の方々が素晴らしい資料を公開されています。こちらもぜひ読みましょう。

なぜ修士論文は学会論文よりページ数が多いのか。

少なくとも伊藤研究室において、大半の修士論文の内容は、既に学会発表のために文書化されたものと同一です。 よって、学会発表原稿の書式を変えるだけで修士論文になるのではないか、と考える人もいるかもしれません。 しかし、学会発表原稿と修士論文は、以下の点で異なることを、まず念頭に置いてください。

学会発表原稿 修士論文
想定する読み手 主に当該分野の専門家 当該分野の専門家に限らない
盛り込むべき内容 原稿で主張すべき研究成果を最もアピールできる内容 2年間にやったことのうち、論文タイトルに関係あること全て
形式 一続きに読む文書 教科書・参考書のように、各章が独立に近い位置づけを有する文書
ページ数制限 各々の学会が定めるページ数 いくらでも書いてよし :-)


修士論文作成の前半の工程において、既存の学会発表論文からのカット&ペースト作業を生じることは否定しません。しかしその後に、例えば以下の観点からの書き加えが必要であることを、念頭に置いてください。
  • 当該分野の専門家に限らず、幅広い読み手を想定して、くどいくらい丁寧な説明を心がける。特に研究の背景を紹介する章では、学会発表原稿よりも広い視野での説明を加える。
  • 自分が目にした論文、教科書、ウェブなどを、あますことなく参考文献に加えて、関連研究の章などで紹介する。その分野において世界中で自分が最も多くの参考文献を知っている、というくらいの姿勢を示すべき。
  • 提案手法の具体的な処理手順を説明する章では、修士論文の読者が同じ手法を再現できるのに十分なくらい、細かいところまで説明をする。
  • 2年間でやったことのうち、あまり成功でなかった実行結果、ページ数制限のために学会発表原稿から省いた実行結果などを、できるだけ多く加える。
  • 形式上の体裁として加えるべき文面を加える。

各章のポイント。

序論(背景)

多くの人にとって1.1節にあたる背景の説明は、学会発表原稿とは大きく異なります。

学会発表原稿は、主として狭い研究分野の専門家を対象に、所定のページ数の範囲内で執筆しますので、 初歩的な背景は割愛することが多いかと思います。 それに対して修士論文では、必ずしも読者に専門家を想定しませんので、学会発表原稿よりも初歩的なところから背景の説明を始めることになります。 そのぶん、この部分の説明は、学会発表原稿よりも長くなるのが通例です。
端的にいえば、「画像処理とは…である」というような説明は、学会発表原稿では初歩的すぎて失礼にあたるかもしれません。 しかし修士論文では、時として、そのようなレベルの説明から序論を始めることが必要な場合もあります。

また、同じことが背景説明だけでなく、研究の動機付け、つまり「なぜその研究をするのか」の説明についても言えます。 学会発表原稿では、研究の動機付けは専門家には自明である場合も多く、その説明は簡潔なものにとどまっている場合も多くあります。 しかし修士論文では、ここを専門家以外の人にも伝わるように、丁寧に説明する必要があります。

背景説明の章の一環で、その研究課題における先行研究が何を達成していて何を達成していないかを記述する場合があるかと思います。この点についても、既に発表している学会原稿とは同一というわけにいかない場合があります。1本1本の学会発表原稿よりも広い視野で、当該研究に関する課題や問題点を論じる必要があります。

関連研究

多くの人にとって2章では、多くの参考文献を引用して、関連研究を紹介するであろう、と思います。ここでも学会発表原稿との違いがあります。

学会発表原稿では、ページ数制限などの関係から、その原稿の提案手法に直結する先行研究や、提案手法のライバルとなる比較研究などだけに参考文献を絞ることがよくあります。 しかし修士論文では、読者が専門家とは限らないこと、端的にいえば皆さんと入れ替わりに研究室に入ってくる新メンバーが、皆さんの修士論文を教科書にして研究を始めるかもしれないことを想定して、その研究分野の黎明期の研究を含めて、数多くの研究を紹介することが望ましい場合があります。 この観点から、修士論文では参考文献を増やすのが当然、ということになります。

また、修士論文では読者に専門家を想定しないということから、学会発表原稿以上に、「なぜその論文を紹介するのか」「なぜその論文が本研究に関係するのか」という背景の説明が必要です。その観点からの説明も書き加えましょう。

これらのことを考えると、関連研究の説明の章は、本研究との関連性の観点からいくつかの節に小分けして、整理して説明したほうが望ましいであろうと思います。 一方で、この章全体が、本論文に関係する研究分野の歴史や変遷をきれいに説明する、一種の参考書のような位置づけであってほしいものです。その意味では、章を小分けするだけでなく、どういう順番で関連研究を紹介するか、という点にも工夫が必要と考えられます。

また、修士論文ではページ数制限はありませんので、先行研究や比較研究を図で紹介するのも歓迎されます。それで読者の理解が深まるのであれば、積極的に図を挿入してください。
ただし先行研究を図で紹介する場合にも、その出展を明らかにすることが必要です。また、学位論文であっても図の掲載には著作権保有者の許可を得る必要がある場合があります。例えば、著作権を委譲した論文に用いた図を再利用する場合、厳密には出版社の許可を得てそれを明示するなどの一定の措置が必要になります。

提案手法・実行結果

提案手法や実行結果の章でも、学会発表原稿と比べて、以下のような点を心がけるとよいでしょう。

学会発表原稿では、提案手法の処理手順だけを機械的に説明し、何故その手法を採用したのかといった理由まで説明する紙面がない、という場合もよくあります。 修士論文では、その点を補足すべきです。何故その手法を採用したのか、別の手法を試みたけど採用しなかった経緯、などを思い出して、記述を加えましょう。

理工系の論文における究極の目標の一つに、読者が同じ技術や実験を再現できるように記述する、という目標があります。 学会発表原稿ではページ数の制限により、そこまで細かく手法を説明できないことがあります。 しかし修士論文ではページ数に制限がありませんので、この目標を目指して、読者が同じ技術や実験を再現できるような記述を心がけましょう。

手法と結果の区別を明確に切り分けてください。 自分の開拓した手法は、詳細にいたるまで、全て手法の章で説明してください。 結果を読むまでわからない部分がある、ということのないようにしましょう。 逆に、手法の章で結果を見せるのは極力避けてください。

学会発表原稿では、うまくいった結果だけを載せる、という場合もあります。 しかし修士論文では、うまくいかなかった結果や、途中で断念した実験なども、 できるだけ全部入れましょう。 これらを全部入れることが、皆さんの2年間が充実したものであることの証拠になりますし、 またその研究を引き継ぐ後輩への参考になる場合もあります。

実行結果が何を意味するのか、何故そうなったのか、どこがよかったか、どこが悪かったか、 どうすればもっといい結果が出るか、といった考察や議論の記述を充実させましょう。 ページ数に制約のある学会発表原稿では、極端な場合では、実行結果を「いい結果が出た」の一言でまとめてしまうことがあります。 修士論文では、この点に関して深い考察を進めましょう。

結論

結論の章では、形式的に各章の内容を振り返るだけでなく、各章で得られた成果を述べましょう。 そしてその次の段落にて、修士論文を総括して、自分の研究がいかに価値のあるものであったか、精一杯のアピールを述べることにしましょう。

修士論文や博士論文で、今後の課題をどう述べるか、については意見の分かれるところです。 私は学生の時、「学位論文は研究のゴールなんだから、課題なんかあってはいけない」と審査員の一人に指導されました。 しかし逆に、「研究にゴールなどあるわけないのだから、今後の課題のない研究などない」という立場の人もいます。 私は現実論として、少なくとも伊藤研究室のほとんどの修士論文には今後の課題が存在するものとして、今後の課題を書くように勧めています。

謝辞

主査や副査に謝辞を入れるのは当然として、学会発表を共著した共同研究者、その他アドバイスをいただいた方を、忘れずに入れてください。また、データ提供者、予算提供者、ユーザテスト被験者、研究室メンバーなど、他にもいろんな人がいたはずです。よく思い出してください。 (自分の2年間を隅から隅まで思い出す絶好の機会です!)

研究の直接の関係者でない人、家族や友人、などについては、謝辞に加えるか否かは意見の分かれるところです。 私個人的には、人名までは書かずに、単に「家族や友人に感謝します」という一般名詞で謝辞に加えることを勧めています。

その他、形式的なこと。

修士論文全体の構成

いままで書いてきた学会論文の各章と比べて、修士論文・博士論文の各章はもっと独立した存在となっています。よって修士論文・博士論文の多くでは、1章と最終章を除く各章に「はじめに」と「おわりに」の各節がつけられており、以下のような内容が述べられています。

  • 各章の「はじめに」ではその章の構成を述べる。例えば
    「2.2節では … について述べる。2.3節では … について述べる。」
    といった文を含めることで、その章の中でこれから続く内容を予告する。
  • 「おわりに」ではその章に書かれた内容や結果を総括する。
たまに各章の「はじめに」と「おわりに」で全く同じことを繰り返し書いている人がいますが、厳密には両者の役割は異なると考えたほうがいいでしょう。

修士論文・博士論文の要旨にも要注意です。要旨は学会論文と同様、 論文全体の要約でなければなりません。 また、要旨は論文本体から独立して要旨だけで人に読まれる可能性がある ことを意識しないといけません。 このような観点から、要旨が論文本体中の特定部分の文章をそのままコピーしたような内容にならないよう、くれぐれも注意して下さい。
これも学会論文と同じですが、一般的に要旨には、研究の背景や問題設定、提案手法、結果(場合によっては結果の考察も)を要約して記述します。(言い換えれば、今後の課題は要旨には含めないのが一般的です。)

細かいポイント

以下、いままでに添削して気がついた、細かいポイントです。

  • 学会発表論文はpaperですが、修士や博士の論文はthesisです。
  • 同様に、主語が「本報告」になってはいけません。「本論文」とするべきです。
  • 修士論文は学生単著の論文なので、日本語の「我々」「著者ら」や英語の「We」は不自然であると解釈する人もいます。私個人的には、これらを避けることを勧めています。 (一方で、単著でもWeでいいんだ、という習慣を有する分野もあるようで、ややこしいところですが。)
それと以下、修士論文に限らず、いつでも気をつけるべきことですが、修士論文提出のような切羽つまった時期になると、普段できていることを見落としてしまいがちです。 以下のようなミスが特に多いように思いますので、気をつけましょう。
  • 既に学会発表原稿を書いている人には言うまでもないことですが、全ての図、全ての表、全ての参考文献を本文から引用しているか、もう一度確認して下さい。
  • 英文・英単語記述の中に全角文字を混ぜるのを避けましょう。よくあるミスとして、引用符やアポストロフィーが勝手に全角文字にされてしまうケースがあります。Microsoft WORDを使っている人は特に注意が必要です。 (伊藤研究室では修士論文はLaTeXで統一していますが、編集途中にMicrosoft WORDなどを併用しているためにこのようなミスが起こる、という場合もあります。)
  • 参考文献の記述の不統一が目立ちます。特に
    • 日本語人名のフルネーム表記と名字だけ表記の混在
    • 外国人名のファーストネームとファミリーネームの順番の不統一
    • 太字や斜体などの部分的な用法の不統一
    • 発行年、巻、号、ページ数の記述形式の不統一
    に気をつけましょう。

最後に。

修士論文・博士論文は日常生活で接する文書と比べて冗長な形式を有します。 きっと部分的には同じ内容を2回も3回も書く必要が生じるでしょう。 「なぜ、わざわざ文章量を引き伸ばすような形式で論文を書かなければならないのか」と思われることがあるかもしれません。私自身も学生時代にそのような感想を持ったことがあります。
しかし例えば企業に就職して、仕様書・説明書・契約書の類に触れると、修士論文や博士論文よりもはるかに「なんて長たらしい文書なんだ」という印象を持たれるに違いありません。 このような、一見冗長な印象がある「論理的で網羅的な文書」のおかげで、社会は「所定の文書の記載内容の通りに動けば間違いない」という状態で動いています。 修士論文や博士論文を書くという工程は、現代社会に必要不可欠な「論理的で網羅的な文書」を作成する練習を兼ねている、と私は考えています。

修士論文の執筆と提出を完了したら、印刷・製本して 家族やその他、いままで皆さんを見守ってくれた大切な人に見せる のを強く推奨します。
詳しい内容までは理解してもらえないまでも、少なくとも、喜んでもらえるものと思います。 皆さんの苦労の成果を披露することが、お世話になった人達への本当の謝辞である、と思ってください。