1968年 (0歳) | 東京都北区に生まれる。 |
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1971年 (3歳) | 埼玉県川口市に転居。これで「出身地:東京都」と書くのは気が引ける。 |
1979年 (11歳) | アマチュア無線を趣味とする親戚が間違って買ってしまった、電子工作の本にハマる。 それ以来、ラジオやスピーカーを自作したり、パソコンのプログラムをノートに書いてしまうような、 マニアな小学生に化ける。 |
1980年 (12歳) | 中学校入学。クラスメートに強引に引っ張られて吹奏楽部に入り、トロンボーンを始める。 それ以来、音楽に異様にのめり込む。 |
1981年 (13歳) | クラスメートが趣味で作詞をしていたことに目をつけ、それにメロディをつける形で作曲を志す。 電子工作の腕を発揮してミキサーを自作し、自作曲を自宅録音するという、絵に描いたようなオタク中学生に育つ。 |
1983年 (15歳) |
地元の男子高校に入学。その学校は進学校であるにも関わらず、マラソン大会が48kmあったり、 5月から水泳の授業があったり、という気合系の学校だった。 おかげで、それまでモヤシっ子(死語?)だったのが嘘のように、図太い生徒に化ける。大感謝。 |
1986年 (18歳) |
電子工作と音楽の知識を活かした進路を歩みたいという一心から、 音響工学研究室のある電気系の学科を選び、大学に進学。 講義開始と同時に吹奏楽のサークルに見学に行き、そのまま飲みに行き、2年先輩の学生指揮者の 下宿にお世話になる。翌週いきなり指揮棒を渡され、そのまま卒業までサークルの指揮者に。 音楽の勉強の合間に講義に出るような学生生活を送る。 |
1989年 (21歳) | 音響工学研究室の教授退職のため、別の研究室に入り、CG(コンピュータグラフィックス)の研究に関わる。 大学院への進学を志す。 |
1990年 (22歳) |
修士1年の秋、カリフォルニアに1ヶ月の語学研修に行き、アメリカにハマる。 就職は外資系企業に」の思いを胸に帰国。その直後に、CG業界で世界一有名な国際会議 「SIGGRAPH」の表紙を、外資系IT企業勤務の日本人が飾る、という快挙を見つける。 一瞬にして、その外資系IT企業を希望就職先に決意。翌年めでたく内定を得る。 |
1992年 (24歳) |
修士論文を提出し、そのままヨーロッパに1ヶ月の放浪旅行。カリフォルニアでのクラスメートを訪ねて回る 帰国してから3月31日まで研究室に通い詰めて論文誌に投稿し、 翌日から外資系IT企業の社員となる。職場の移転に伴い、神奈川県に転居。 |
1994年 (26歳) | 音楽のメイリングリストにハマり、ジャズやロックの人たちと会うようになる。 そのままクラシック音楽をやめてバンド活動を始める。いくつかのバンドを転々としているうちに、 プロ活動を目指す(または元プロの)人たちのバンドに入るようになる。 |
1995年 (27歳) | 世界的な学会(IEEE)の有名雑誌に初めて論文が掲載される。ビギナーズラック。 これで早く博士号を取ろうという決意が固まる。 |
1997年 (29歳) |
会社勤務の合間に、主に土日と早朝・深夜で論文を書き、大学に提出。 無難に審査を通過し、博士号を取得。 |
1998年 (30歳) |
プロのサウンドエンジニアや、プロ級のボーカリストと知り合い、 自作曲をレコーディングするポップスユニットを実現する。 FM放送の番組オープニングテーマソングとして自作曲を1年間使ってもらう。 また別の知人アナウンサーのコネにより、会社の合間に頻繁にFM放送の音楽番組に出演させてもらうようになる。 |
2000年 (32歳) | カーネギーメロン大学に5ヶ月間の修行に出る。 アメリカ生活が自分の肌に合い過ぎて、帰りたくなくなるが、 帰国後すぐに大学の非常勤講師を引き受けていたので、素直に帰国する。 |
2001年 (33歳) | 大学の芸術系学部で音楽関係の講義をもったり、音楽関係の解説記事を雑誌に書いたりする機会を得る。 中学高校時代の旧友と3人編成の自作曲ユニットを結成し、趣味の作曲に勢いがつく。 |
2002年 (34歳) | 学部卒業論文から一貫してCG(およびその周辺分野)の研究をしていたが、
ここで一転してまるで違う分野の研究グループに異動し、企業の主力製品に近い分野の研究に関わる。 結果的には転職(2005年)までの3年間のサバティカルのような異動であったが、素晴らしい経験となった。 |
2003年 (35歳) | 京都大学の客員研究員を兼任。神奈川県の会社員でありながら、月1日京都に日帰りする、 という慌しい生活が始まる。この経験がきっかけで大学教員への転身を考え始める。 |
2005年 (37歳) | 13年間にわたって私を育ててくれた外資系IT企業を退職し、大学教員を本業とする。 勤勉で活発な学生に囲まれ、幸せな教員生活をスタートする。 |
2008年 (40歳) | カリフォルニア大学デービス校に7週間の滞在。
ほんの短期間ながら学生に戻った気分で研究に打ち込む。 7週間の成果は国際会議に採択され、それなりの被引用数を得る。 この頃から学生の研究が多角化し、いろんな研究分野の学会(HCI, データ工学, 人工知能, 生命情報, 音楽情報処理など)に顔を出すようになる。 |
2011年 (43歳) |
教授に昇進し、シミュレーション科学教育研究センター長を兼任し、用務に追われ始める。 6年間の准教授生活が貴重な時間だったことを後から理解する。 |
2014年 (46歳) |
シドニー大学に5週間の滞在。
再び、ほんの短期間ながら学生に戻った気分で研究に打ち込む。 5週間の成果は時間を経て2本の国際ジャーナル論文となる。 帰国したらすぐ学会の会長になり責務に追われる。 |
2015年 (47歳) | 勤務先大学のピアノ班OG会にて 「ピアノ伴奏のフルート曲を電子楽器で代用する」 「弦楽◯重奏のチェロを電子楽器で代用する」 といった形での参加を誘われる。不慣れな室内楽演奏に新鮮な気持ちで取り組む。 |
2018年 (50歳) | ブリティッシュコロンビア大学(カナダ・バンクーバー)に3週間の滞在。
またしても、ほんの短期間ながら学生に戻った気分で研究に打ち込む。 |
2019年 (51歳) | 文理融合AI・データサイエンスセンター長に任命される。
突然AIやデータサイエンスを語る役が回ってくるようになり、勉強に追われる。 |
2020年 (52歳) | コロナ禍に突入。出張が減ったのを機に、
自分で研究を進めて筆頭著者で発表する機会を増やすようになる。 |
2022年 (54歳) | ジェンダード・イノベーション研究所の研究員兼任を任命される。
不慣れな研究分野の会議や講演に追われるようになる。 |
2023年 (55歳) | 年に5回海外に行くなど、コロナ禍前の生活に戻る。 |
2024年 (56歳) |
共創工学部文化情報工学科と理学部情報科学科の2学科兼担教授になる。 新学科では音楽や絵画の分析を主たる研究課題とするようになり、 学生時代からの趣味がますます実益に近づく。 |